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■ 魔法使いは母乳を売る

空は鉛色に染まり、遠くで雷鳴が低く唸っていた。古びた石造りの長屋がひしめく裏路地。その一角に、ひっそりと店を構える「月光堂」。看板には、まるで指でなぞったかのような、かすかに光る文字でそう記されていた。店主は、老女のような、しかしどこか少女の面影を残す不思議な風貌の魔法使い、エディス。彼女は、この世には存在しないはずのものを、秘密裏に扱っていた。それは、母乳。

「いらっしゃいませ。」

エディスの声は、静かに店内に響き渡った。古めかしい薬瓶や乾燥させた薬草が並ぶ棚の間を縫うように、客は足を踏み入れる。彼らは皆、口元を隠し、どこか後ろめたいような、しかし切実な光を瞳に宿していた。

今日、店に訪れたのは、若い母親だった。顔色は青白く、疲労と不安が滲み出ている。彼女は、震える手で小さな木箱を取り出した。

「あの…エディス様。お願いです。」

木箱の中には、小さなガラス瓶が数本。その中には、乳白色の液体が満たされていた。それは、彼女自身の母乳だった。

「息子が…熱を出して、もう何日も。」母親は言葉を詰まらせた。「ミルクを嫌がるんです。でも、母乳も、もう…出なくなってしまって。」

エディスは、静かに母親の言葉に耳を傾け、そのガラス瓶を手に取った。指先でそっと瓶を撫でる。そこから伝わる微かな温もりと、生命の輝き。

「辛かったでしょう。」エディスは優しく言った。「ですが、大丈夫。あなたの母乳は、まだ力を持っています。」

エディスが母乳を売るようになったのは、もうずいぶんと昔のことだ。彼女自身、かつては子を失った経験があり、その悲しみは今も彼女の心に深く刻まれていた。ある日、絶望の淵にいた母親が、泣きながら彼女の店にすがりついてきた。「この子に、母乳を飲ませてあげたい。でも、もう、私には…」その言葉を聞いた時、エディスの中で何かが弾けた。

魔法使いが扱うのは、呪文やポーションだけではない。人々の願い、希望、そして失われたものの代わりとなるもの。エディスは、母乳に秘められた生命の力を信じていた。それは、単なる栄養ではない。母親の愛情、温もり、そして癒しの力。

彼女は、魔法の力で、その母乳に特別な力を与えた。それは、病を癒し、活力を与え、そして何よりも、子供が母親の愛情を感じられるようにする力。もちろん、その代償は小さくなかった。母乳は、生命の源。それを分かち与えるということは、自身の生命の一部を削ることに他ならない。エディスは、その力を使い切るたびに、年老いていくのを感じていた。

「この母乳は、あなたの息子さんのためのものです。ですから、この力は、息子さんにしか届きません。」エディスは、母親に小さな袋を手渡した。中には、光る粉が数粒入っている。「これを、母乳に溶かしてください。そうすれば、息子さんは、あなたの愛情を、温もりを、そして、生きる力を、もう一度感じられるはずです。」

母親は、袋を受け取ると、深々と頭を下げた。「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。」彼女の目には、希望の光が宿っていた。

母親が店を出ていくと、エディスは静かに窓の外を見つめた。雨は、いつの間にか止み、雲の切れ間から、淡い月光が差し込んできた。その光は、まるで彼女の店を照らすように、優しく、しかし力強く輝いていた。

「母乳か…」

エディスは、かすかに微笑んだ。それは、失われた過去への追憶であり、そして、未来への希望でもあった。彼女は、この店で、これからも人々の願いに応え続けていくだろう。魔法使いとして、そして、母として。

その夜、エディスは、再び己の生命を削り、新たな母乳を魔法で満たした。それは、まだ見ぬ誰かのために。それは、絶望の淵にいる誰かのために。それは、失われた命を繋ぐために。

月光堂の灯りは、静かに、そして力強く、裏路地を照らし続けていた。