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## 嵐の前の静けさ

夕暮れ時、プールサイドには独特の湿った匂いと、消毒液の刺激的な香りが漂っていた。窓の外では、一日の熱気を帯びた空が、徐々に静かな藍色へと染まっていく。水泳部の女子選手たちが、最後の練習を終えてプールから上がり、タオルで体を拭いている。その視線の先には、一点の曇りもない、整然と並べられたプールサイドの椅子。そして、その中央に、不敵な笑みを浮かべて立つ男がいた。

彼の名は、佐伯。水泳部のコーチだ。鍛え上げられた肉体、鋭い眼光、そして何よりも、選手たちを支配するようなカリスマ性。しかし、その魅力の裏には、どこか歪んだ欲望が隠されているように、彼女たちには感じられた。特に、この夏、全国大会の出場権を掴み損ねたことで、佐伯の苛立ちは増すばかりだった。

「おい、お前ら！」

佐伯の声が、体育館に響き渡る。選手たちは、びくりと肩を震わせ、一斉に佐伯の方を向いた。

「聞け。このままじゃ、来年の夏も同じ結果だ。いや、それ以下になるかもしれないぞ！」

佐伯の言葉は、いつも的を射ている。しかし、その言葉の裏には、彼女たちを追い詰めるような、冷たい響きがあった。

「今回の敗因は、明確だ。お前たちのスタミナ不足。特に、息継ぎの甘さだ！」

佐伯の視線が、エースである結衣に注がれた。結衣は、中学時代から才能を嘱望され、佐伯がその才能を見出してスカウトした選手だ。しかし、彼女の繊細なメンタルは、佐伯の厳しい指導に耐えきれず、試合で力を発揮できないことが多かった。

「結衣、お前は特にだ。あの決勝のラスト25メートル、息継ぎを怠ったばかりに、どれだけのタイムを失ったか、分かっているのか？」

結衣は、俯いて何も言えなかった。佐伯の言葉は、彼女の心の奥底に突き刺さる。

「いいか、お前たち。来年の夏まで、俺は『鬼コーチ』になる。そして、お前たちには、『鬼抜き1分間トレーニング』を課す！」

「鬼抜き…1分間トレーニング？」

選手たちの間に、ざわめきが広がる。佐伯が口にした「鬼抜き」という言葉は、彼女たちにとって、悪夢の始まりを意味していた。

## 鬼コーチの咆哮

翌日から、地獄のような日々が始まった。佐伯の「鬼抜き1分間トレーニング」は、文字通り、選手たちの限界を超えさせるものだった。

「1分間、息継ぎなしで泳げ！」

佐伯の声が、プールに響き渡る。選手たちは、必死に水を掻き、前へと進もうとする。しかし、数メートルも進まないうちに、肺は酸欠で苦しくなり、視界は霞んでくる。

「ダメだ！もっとだ！お前には、そんなものしかないのか！」

佐伯は、プールサイドを歩き回り、選手たちに檄を飛ばす。その目は、まるで獲物を追い詰める捕食者のそれだった。

「結衣！お前こそ、もっとだ！その顔、何だ？まだ、甘えてるのか！」

佐伯の怒りは、結衣に集中する。結衣は、必死に佐伯の言葉に応えようとするが、体の限界は、彼女の意志を凌駕していく。水中では、酸素を求める体が、痙攣のように暴れ始めた。

「うっ…！」

結衣は、耐えきれずに息を吸い込もうとするが、その瞬間、佐伯の怒声が飛んできた。

「ふざけるな！まだ、水面に出るなと言っただろう！」

佐伯は、水泳部員ではないが、元競泳選手であるマネージャーの美咲に指示を出す。

「美咲、結衣が息継ぎをしたら、すぐに叩き起こせ！」

美咲は、佐伯の命令に逆らうことができず、結衣が水面に顔を出した瞬間、容赦なく彼女の肩を叩いた。

「うっ…！」

結衣は、再び肺に空気を送り込もうとするが、それを阻まれる。水中で、彼女は、もはや人間としての尊厳を失っていくかのような感覚に陥った。

「もっとだ！あと30秒だ！」

佐伯の声が、鼓膜を震わせる。結衣は、意識が遠のいていくのを感じながら、ただひたすら、水を掻き続けた。

「タイム！1分だ！」

佐伯の声で、ようやくトレーニングは終了した。結衣は、フラフラになりながらプールサイドに上がり、地面に倒れ込んだ。激しい咳き込みと共に、彼女の体から、溜まっていた空気が吐き出される。

「はあ…はあ…」

結衣は、荒い呼吸を繰り返しながら、佐伯を見上げた。佐伯の顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。

「どうだ、結衣。これが、お前の限界か？」

結衣は、何も言えなかった。ただ、胸が締め付けられるような痛みと、悔しさが彼女を襲う。

## 募る疑念と抵抗

「鬼抜き1分間トレーニング」は、連日続いた。選手たちは、肉体的にも精神的にも追い詰められていった。ある者は、練習中に過呼吸になり、倒れる者もいた。しかし、佐伯は、一切の情け容赦をしない。

「休んでいる暇はない！お前たちが弱すぎるから、こんなことになるんだ！」

佐伯の言葉は、選手たちの間に、恐怖と不信感を募らせていった。特に、結衣は、佐伯の指導に疑問を感じ始めていた。

（本当に、このトレーニングは、私のためになるのだろうか…？）

結衣の心に、疑念が芽生え始めた。佐伯の指導は、確かに選手を追い込む。しかし、それは、彼女たちが成長するための指導ではなく、ただ単に、佐伯自身の歪んだ欲求を満たすための行為なのではないか。

ある日、結衣は、意を決して佐伯に話しかけた。

「コーチ、あの…」

「なんだ、結衣。まだ、何か不満でもあるのか？」

佐伯は、結衣の言葉を遮るように、冷たい視線を向けた。

「いえ、あの…その、トレーニングの内容について、少し…」

「内容？お前が、このトレーニングに耐えられないだけだろう。もっと、精神的に強くなれ！」

佐伯は、結衣の意見に耳を傾けることなく、一方的に突き放した。結衣は、佐伯の態度に、さらに疑念を深めた。

（このままでは、いけない…！）

結衣は、水泳部員としての良心と、一人の人間としての尊厳を守るために、何か行動を起こさなければならないと考えた。

その夜、結衣は、部員数名と密かに集まった。彼女たちは、佐伯の指導が、体罰に近いものであり、精神的な虐待であるという共通認識を持っていた。

「佐伯コーチのやり方、おかしいと思わない？」

「うん…だって、私たち、息継ぎできなくなって、倒れそうになってるんだよ。」

「それに、佐伯コーチ、結衣のこと、なんだか特別扱いしてるみたい…」

「そうそう！結衣が倒れそうになると、すごい勢いで怒るんだもん。」

彼女たちは、佐伯の行動の裏に、隠された意図があるのではないかと、囁き合った。

「もしかしたら、佐伯コーチ、私たちを…」

結衣は、言葉を濁した。しかし、その言葉の裏にある意味は、全員が理解していた。

「私たちは、このままじゃダメだ。何か、しないと…」

結衣は、決意を固めていた。彼女たちは、この異常な状況を、世の中に訴えることを決めた。

## 嵐の予兆

数日後、水泳部の練習中に、異変が起きた。

「佐伯コーチ！もう、限界です！」

以前から、佐伯の指導に疑問を抱いていた選手の一人が、ついに耐えきれずに声を上げた。

「なんだ、お前。まだ、そんなことで音を上げているのか！」

佐伯は、いつものように選手を叱責しようとした。しかし、その瞬間、プールサイドに、見慣れない人影が数名現れた。

「佐伯コーチ、少々、お話があります。」

現れたのは、学校の理事長と、保護者会から数名の代表者だった。彼女たちの顔には、厳しい表情が浮かんでいる。

「理事長！一体、どういう…」

佐伯は、突然の来訪者に驚き、言葉を失った。

「佐伯コーチ。あなたの指導について、いくつか苦情が出ております。」

理事長の言葉に、佐伯の顔色が変わった。

「苦情…？一体、誰が…」

「それは、後ほど詳しくお伺いします。まずは、練習を一時中断していただきます。」

理事長の言葉は、絶対だった。佐伯は、反論する術もなく、ただ、指示に従うしかなかった。

選手たちは、互いに顔を見合わせた。彼女たちの顔には、安堵と、わずかな希望の光が灯っていた。

結衣は、理事長の後ろに立つ、ある人物に目を向けた。それは、彼女の母親だった。母親は、結衣に、力強く頷いた。

「結衣、よくやったわ。」

その母親の言葉に、結衣の目から、熱いものが込み上げてきた。

嵐の前の静けさは、破られた。しかし、それが、彼女たちにとって、どのような未来をもたらすのか、まだ誰にも分からなかった。佐伯の「鬼抜き1分間トレーニング」は、終わったのか。それとも、これは、新たな戦いの始まりなのか。プールサイドに漂う湿った匂いと、消毒液の香りは、いつもと変わらない。しかし、その空気は、確実に、変化の兆しを孕んでいた。