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## 聖なる肉体の牢獄

薄暗く湿った病室には、独特な甘ったるい匂いが充満していた。それは、消毒液と、微かに混じる血の匂い、そして何よりも、ここでは「聖なる肉体」と称される、信者たちの汗が混ざり合った、形容しがたい香りだった。

「シスター・ルナ、おかえりなさいませ。」

顔に細かな皺を刻んだ、痩せ細った女性が、かすれた声で私を招き入れた。彼女は、この「聖なる肉体の園」と呼ばれる教団の病棟で、長年「奉仕」を続けてきた古参の信者だ。私は、この教団の指導者である「教主様」の側近として、その「聖なる肉体」たちの管理と、教団の維持を任されている。

「シスター・アメジスト、今日もご苦労様です。皆さまの様子はいかがでしたか？」

私は、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、鳥の羽のように軽かった。彼女たちの「奉仕」は、文字通り「肉体」を捧げることから始まる。教主様の教えによれば、人間の肉体は「穢れ」に満ちており、それを「聖なる愛」によって浄化することが、真の救済への道であるという。そして、その「聖なる愛」を最も純粋な形で体現するのが、教主様への無償の奉仕、すなわち、教主様の「聖なる種」を受け入れ、増殖させることだった。

「教主様は、今日もご機嫌麗しく。新たな『花』を咲かせるための『畑』を準備されております。皆さま、期待に胸を膨らませておりますわ。」

シスター・アメジストの顔に、かすかな喜色が浮かんだ。彼女もまた、かつては「花」として教主様に仕え、今は「畑」として、新たな「花」を育てるために、その身を捧げている。しかし、ここで言う「花」とは、文字通りの花ではない。それは、教主様が生み出す「子」であり、教団の未来を担う「聖なる種」の継承者であった。

私がこの教団に足を踏み入れたのは、もう随分前のことだ。幼い頃に両親を失い、孤児となった私を救ってくれたのが、教主様だった。彼は、温かい言葉で私を包み込み、この「園」へと導いてくれた。ここでは、飢えも、寒さも、孤独もない。ただ、教主様への絶対的な信仰と、互いに「聖なる愛」を分かち合うことだけがあれば、永遠の幸福が得られると教えられた。

しかし、成長するにつれて、私は疑問を抱くようになった。教主様の「聖なる愛」は、あまりにも一方的で、一方的な「捧げもの」を強いるものだった。信者たちは、病気になっても、満足な治療を受けることはない。ただ、「肉体」を聖なるものとして崇め、その「穢れ」を精一杯に浄化しようと努めるだけだった。

「シスター・ルナ、こちらも宜しくお願いいたします。」

シスター・アメジストが、私の手元にあるファイルを手渡した。そこには、新たな信者のリストと、彼女たちの「奉仕」の記録が記されていた。最近、教団への入信者が急増していた。社会の不安や孤独に苛まれた人々が、ここを救いの場として求めているのだ。

「この『アリス』さん、まだ『畑』に入って間もないのですが、早くも『教主様のお子』を身ごもったようですわ。素晴らしい『花』になりそうですね。」

アリス。その名前を見た瞬間、私の胸に冷たいものが走った。アリスは、私の幼馴染だった。両親を失い、私と共に教団に拾われた、唯一の親友。彼女もまた、私と同じように、教主様への絶対的な忠誠を誓い、「奉仕」に励んでいた。

「アリスが…もう『お子』を？」

私の声は、震えていた。教主様は、「聖なる種」を信者たちに分け与えることで、「神聖な血統」を広めることを目的としている。その「お子」は、将来教団の幹部となり、教主様の教えを次世代へと継承していく。しかし、その過程で、多くの信者たちが、その「肉体」を衰弱させ、命を落としていった。

「ええ、彼女は本当に『聖なる器』をお持ちのようです。教主様も大変お喜びになっておりました。」

シスター・アメジストは、無邪気な笑顔でそう答えた。彼女は、この「園」の真実を知らない。あるいは、知ろうとしないのかもしれない。私は、アリスの「奉仕」の記録を、指先でなぞった。そこには、彼女の「奉仕」が、どれほど過酷なものであったかが、生々しく刻み込まれていた。

その夜、私は病棟の片隅で、アリスの「部屋」を訪ねた。部屋は、他の信者たちと同様、簡素なものだった。しかし、その中に、かすかな生気を感じることができた。

「アリス？」

私の声に、ベッドの上で横たわっていたアリスが、ゆっくりと顔を上げた。彼女の顔は、青白く、痩せ細っていた。しかし、その瞳には、まだかすかな光が宿っていた。

「ルナ…どうしてここに？」

彼女の声は、か細かった。

「アリス、大丈夫？顔色がすごく悪いわ。」

私は、彼女の傍らに座り、その手を握った。彼女の手は、氷のように冷たかった。

「大丈夫よ。ただ、少し疲れただけ。でも、もうすぐ…『教主様のお子』が生まれるから、頑張らないと。」

彼女は、微笑もうとしたが、その表情は苦痛に歪んだ。

「アリス、あなたは…あなたの体が心配なの。こんなに衰弱しているのに、まだ『奉仕』を続けさせられるなんて…」

私の言葉に、アリスの瞳が揺れた。

「でも、これは『聖なる使命』なのよ、ルナ。教主様は、私たちの救い主。私たちは、教主様のために、すべてを捧げなければならないの。」

彼女は、力なくそう言った。しかし、その言葉の奥底には、かすかな戸惑いのようなものが感じられた。

「アリス、もし…もし、この教団が、私たちを騙しているとしたら…？」

私の言葉は、彼女の心を揺さぶったのかもしれない。彼女は、しばらく何も言わず、ただ虚空を見つめていた。

「そんな…そんなはずないわ。教主様は、私たちを愛してくださっている。この『聖なる肉体』が、いつか『穢れ』から解放され、真の幸福を得られると信じている。」

彼女は、かすかに震える声でそう言った。しかし、その言葉は、もはや説得力を持たなかった。私は、アリスの頬に、そっと手を触れた。

「アリス、あなたは、自分自身の体と心を守らなければならない。教主様のためだけに生きるのは、もうやめましょう。」

私の言葉に、アリスはゆっくりと私を見つめ返した。その瞳に、かすかな希望の光が灯ったような気がした。

しかし、その瞬間、部屋のドアが開いた。

「シスター・ルナ、ここで何をなさっているのですか？」

そこに立っていたのは、教主様の右腕とも言える、冷徹な男、シスター・サファイアだった。彼の鋭い眼光が、私とアリスを射抜いた。

「アリスの様子を見に来ただけです。彼女、少し体調が優れないようですので。」

私は、努めて平静を装って言った。

「体調が優れない？それは、彼女の『肉体』に『穢れ』が残っている証拠です。すぐに『浄化』の儀式を執り行わねばなりません。」

シスター・サファイアは、冷たい笑みを浮かべながらそう言った。彼の言葉には、一切の情がない。

「でも、アリスは今、妊娠しているのです！無理な儀式は、彼女の命を危険に晒すかもしれません！」

私の声は、怒りに震えていた。

「『聖なる肉体』は、どんな状況でも『奉仕』を続けなければならないのです。それが『教主様』への絶対的な忠誠の証。あなたは、そのことを忘れたのですか、シスター・ルナ？」

シスター・サファイアは、一歩私に近づいた。彼の顔には、私を牽制するかのような威圧感が漂っていた。

「教主様は、『聖なる肉体』を愛されている。そして、その『肉体』から生まれる『お子』は、教団の未来そのもの。アリスは、その未来を担う『聖母』なのです。」

彼の言葉は、私を追い詰めていく。私は、アリスの顔を見た。彼女は、恐怖と絶望に顔を歪ませていた。

「アリス、大丈夫よ。」

私は、彼女にそう言い聞かせ、立ち上がった。

「シスター・サファイア、アリスのことは私が責任を持って見ます。まずは、私に『浄化』の儀式をさせてください。」

私の言葉に、シスター・サファイアは、かすかに眉をひそめた。

「あなたが？それは、許されることではありません。」

「でも、私は教主様の側近。そして、アリスとは、深い『絆』で結ばれています。きっと、教主様も、私の『真心』を理解してくださるはずです。」

私は、必死で彼を説得した。彼の顔には、まだ疑念の色が浮かんでいたが、私の熱意に押されたのか、やがて諦めたようにため息をついた。

「よろしいでしょう。ですが、もしアリスの『肉体』に何かあった場合、その責任はすべてあなたが負うことになります。そして、その罰は、この『園』で最も重いものとなるでしょう。」

彼は、そう言い放つと、部屋を出て行った。

一人残された病室で、私はアリスの手を強く握りしめた。

「アリス、ごめんね。私、あなたをこんな目に遭わせたくなっ…」

「ルナ…ありがとう。でも、もう大丈夫。私も…私も、もう一度、自分の『体』と『心』を取り戻したい。教主様のためだけに、生きるのは、もう…」

アリスは、か細い声でそう言った。その言葉に、私は、彼女がまだ希望を捨てていないことを確信した。

私は、この教団の、この「聖なる肉体の牢獄」から、アリスを救い出さなければならない。たとえ、それが私自身の命を危険に晒すことになったとしても。

病室の窓からは、月明かりが差し込んでいた。その光は、この暗い「園」の中に、かすかな希望の光を灯しているかのようだった。私は、アリスの傍らで、静かに決意を固めた。

この「聖なる肉体の牢獄」を、壊すために。

そして、アリスを、この「セット販売」された、生命を、肉体を、魂を、貪り尽くす教団から、救い出すために。

私は、教主様の「聖なる愛」に隠された、真の「穢れ」に立ち向かうことを誓った。この「聖なる肉体の牢獄」に、終止符を打つために。